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ユキコログ

1985年生まれ。2016年12月に1年間のカナダ・ビクトリアでのワーキングホリデーを終え、現在は中南米を気ままに旅行中。

『気遣い』ができる人というのは、できない人をも許せる人のことだと思う

考察、思うこと

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これは一種のごまかしでしょうか。

 

いや!なんていうかですね。
自分は気付いてやれることを、他の人はやってくれないと思ってしまった時。

そういう時って、無性に腹が立ちませんか?

 

特に『気付いた人が気付いた時にやりましょう』みたいなルールがある時。
ああいう時、絶対にやってくれる人って固定しますよね。
やらない人はやらない。

このルールに従うと、やらない人ってイコール気付いてないってことですよね。

いつも不思議なんです。
あれ、ほんとに気付いてないの?
気付いてても面倒だから気付いてないふりしてるんじゃないの?

そう思ってしまったが最後ですよね。
そう思ってしまったら、その人に対してのイライラは止まりません。

 

 

『気遣い』には何が必要か

気遣いができる人というのは、とても素敵です。

相手がどう思っているかを予測して先回りして対応に反映させたり。
みんなが過ごす環境を、ほんのちょっと過ごしやすく整えてくれたり。

こういうことを何も言わずにスマートにできる人。

 

これができるためには、何よりも『気付き』が大事です。
『気付き』ができない人は、周囲が何を望んでいるかがわからないからです。
周囲の望みに気付けるからこそ、周囲に『気遣い』ができるんだと思います。

 

『気遣い』や『気付き』ができる人に甘える人

私がどうしてもイラっとしてしまうのは、このタイプの人に対してなんですね。

冒頭にも同じことを書きました。
自分は気付いて『気遣い』のつもりでやっていることに『気付き』もせず、同じようにしてもくれない。

誰かの『気遣い』や『気付き』に甘えるだけで、それを享受するだけの人。

 

本来は自分ではない誰かのためにと思ってやっていたことでも、こうなってくると重荷になる。

そうして、その相手に対して一方的に嫌な気持ちを持ってしまう。
せっかくその場を過ごしやすくしようと思っていたのに、自分の首を絞める結果になります。

 

 

それは本当に『気遣い』なのか?

こうして私が一方的に腹を立てていた時に、思いました。
そもそも『気遣い』とは、こんな風に相手に見返りを求めるものなのでしょうか?

私のイライラの原因は、相手にも同じだけのものを返して欲しいという一方的な思いです。
私ばっかりがやらされていて自分ばっかりが損をしていると感じてしまう。
いわば損得勘定ですね。

 

そういった損得勘定で考えてしまう自分のその行動、これって果たして本当に『気遣い』といえるんでしょうか。

 

…私は、違うんじゃないかなと思いました。
『気遣い』ができるつもりの自分を、相手に押しつけてるだけなんじゃないか。 

この結論に行き着いた時は、さすがにショックでした。笑

 

たぶんね、『気遣い』どころか『気付き』もしない人って、一定数はいると思うんです。
『気付き』の回路そのものがないんじゃないかと思う人って、やっぱりいます。

私はおそらく、『気付き』はできる方の人だと思います。
でもやっぱり損得勘定をしてしまうから、同じだけ相手にも『気付き』を求める。

 

それなら、もういっそのことさ。

『気付き』ができない人に対してイライラしながら自己満足の『気遣い』をするくらいなら、全部放っておけばいいんじゃないかな!

 

少し乱暴な気もしますが、そうすることにしました!

その方がもう、自分の精神衛生的にはいいんじゃないかと。
ある種の開き直りに近いですね。

イライラするくらいなら、もうやらなければいいじゃない!

 

 

『気遣い』ができる人

『気付き』ができる人もいるし、できない人もいる。

そして私は、『気付く』ことができない人までも許せてこそ、『気遣い』ができる人と自分で言ってもいいんじゃないかと思います。

 

本当の『気遣い』ってきっと、相手がどうだろうが関係ないんだと思うんです。
どこかで誰かが見ていてくれようがくれなかろうが、きっとね。

本物の『気遣い』ができる人にとっては、きっとそんなの問題じゃない。

そんな器の大きさというか、心の広さというか。
そういうものがある人にこそできるものなんじゃないでしょうか。

器の大きい人、器の小さい人

器の大きい人、器の小さい人

 

 

自分以外の人との関わりって、本当にとてつもなく、難しいですね。